第二次実教教科書裁判、傍聴お礼!


皆さま
  増田です。これは「「実教出版教科書問題に関し、違法不当な東京都教育委員会を訴える会」(略称「都教委を訴える会」、共同代表:佐藤昭夫・早稲田大学名誉教授、:高嶋伸欣・琉球大学名誉教授)事務局として
お伝えしてます。超長文、ご容赦を!

 本日、件名裁判には平日の午前中にもかかわらず、多数の参加があり、傍聴席をほぼ満席にすることが出来ました。ありがとうございました!

 都教委は「2013年5月9日の都教委定例会は開かない」と告示していたにもかかわらず、「秘密会議」…実教教科書関連か?…を開き、委員を高額ハイヤー(総額152,420円)で送迎していました。委員は定例会の時にハイヤーを使用するという内規がある…なぜなら「日時場所が判明しているので、都教委を批判する悪者から襲われるかもしれないから」とか言ってます…のですから、都民を騙してこっそり開いている会議にハイヤーを使う必要はないはずです。

 ということで、都民として監査請求を行い棄却されたことで、都民として裁判に訴え原告となった方を代表して高嶋伸欣先生と、「これは都民だけの問題ではなく全国にわたる問題である」として、全国から原告となってくださった方を代表して増田が陳述を行いました。高嶋先生は、今回口頭で陳述され、後で文書化することになりましたので、本日は、私の陳述書をご紹介します。長いのですが、読んでいただければ嬉しいです。

 なお、第二回は、少し先になりますが、11月4日(金)13:15〜 東京地裁606号法廷で行われます。傍聴参加を予定に入れておいていただければ幸いです。


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 陳述書              2016年8月2日   増田都子
   
  1、 私は1973年4月1日、東京都江東区立第四砂町中学校の社会科教員として採用されましたが、33年後の2006年3月31日、千代田区立九段中学校を最後に、石原慎太郎都知事配下の東京都教育委員会によって「公務員、不適格」とされ、分限免職された元教員です。
   33年間、何の問題もなく授業をしてきました。九段中学校の校長先生は「分限免職取り消し」請求訴訟において「むしろ優秀な教員だった。」とまで、証言してくれました。
   
  
2、 それなのに、なぜ、私は「公務員、不適格」とされたのでしょうか。
  それは、私が社会科教師=教育公務員として当然の職務を遂行したこと、つまり、「日本が大日本帝国と称していた時代は、侵略国家であった」という歴史事実を教え、その反省の上に現在の日本国憲法が得られ、初めて国民が主権者となり、初めて基本的人権が保障され、初めて戦争放棄=平和主義の国となった、という歴史事実を教え、その正反対の記述をする「扶桑社歴史教科書は『歴史偽造主義』の教科書です」と、事実を教えたことが原因でした。

  社会科教育は主権者教育の中核となる教科だと考えています。人権の尊重される平和な社会を作るためには、過去の戦争の歴史を教訓としながら、現在を考え、自国が犯した過ちの事実も直視する勇気を持ち、考え合うことを生徒に教えなければなりません。

   
  3、 私の免職処分のきっかけは授業で「ノ・ムヒョン大統領の2005年3・1演説」を教材としたことでしたので、韓国の3つのテレビ局やハンギョレ新聞等から取材を受け「日本では、事実を教え、扶桑社教科書批判を教えた教員が免職される。驚くべきことだ」と報道されました。また、たまたま、第一次安倍政権下で1946年教育基本法が改悪されたとき「日本の軍国主義復活」を取材に来ていたイギリスのテレビ局CH4は私をその一例として報道してくれました。

   
  4、CH4の記者からは「職を失い、後悔していますか?」と聞かれましたが「私は『子どもたちに真実を教える』ということは『真実を枉げるものを批判することを教える』ということなので、これは教師としての当然の職務を果たしたのであるから、誇りにこそすれ、絶対に後悔はない」と答えました。

   
  5、私は、この「分限免職取り消し」請求訴訟において、担当裁判官が日本国憲法第七十六条三項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」、第九十九条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」を実行していないのに、驚きました。

   
  6、「免職正当」とした判決文に書いてあった理由については、実に曖昧な内容に終始していましたが、どうやら「文科省検定済の教科書を『歴史偽造主義』と判断力のない中学生に教えたことは『公務員不適格』であることは明らかである」というもののようでした。 

   私は、当該教科書が、いかに歴史事実について誤った記述があるか、いかに文科省の教科書検定というものが杜撰であるかについて証拠をたっぷりと提出していました。しかし担当裁判官の目には見えなかったようです。

   また、「判断力のない中学生」という判決文には、中学生の真実探求の主体性・人格性の無視が顕れており、それを口実に真実を隠蔽し、虚偽を教えてよいとすることは、青少年に対する侮辱であると思います。
  
 
  7、私は千葉県に居住していますが、現在でも全労協所属の東京都学校ユニオン執行委員長として、東京都中心に活動しています。私の経歴から、当然ながら、子どもの真実を知る「教育を受ける権利」の実現を東京都教育委員会が教育政策として執っているかどうか、中でも教科書行政は、私個人にも当組合にも大きな関心事です。
   
 
 8、日本国憲法第二十六条により「すべて国民は…その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とされて保障されている「教育を受ける権利」とは、日本国中どこにおいても「国民」が受ける「教育」において「真実を知る権利を保障されている」ということのはずです。
   
 
 9、しかし、東京都教育委員会は、多くの教員・保護者の反対に耳を貸さず、『歴史偽造』の扶桑社教科書を…現在はその後継の育鵬社教科書ですが…採択し続け、誤った歴史認識を植え付けるよう子どもたちに強制し続けています。
   
  
10、あまつさえ、「『国旗・国歌を強制する自治体がある』という記述がある」という理由だけで、その強制のワーストワン自治体の自覚があるせいか、2013年6月からは「文科省検定済であるが実教出版歴史教科書だけは、高校の教員は選定してはいけない」という趣旨の見解を議決し、各学校に通知し、教育への干渉をしています。「国旗・国歌」起立の「職務命令は強制である」という事実については文科省さえ認めているにもかかわらず、です。

  このような不当な圧力が加えられたために、実教出版の最新版ではこの記載を含め、真実を述べた記述を出版社自らが削除してしまいました。 これは日本国憲法第二十一条で禁じられている検閲が行われた等しく、こういう結果が民主主義国家であるはずのわが国で出来した、という事態はまことに重大です。

  
11、教科書の選定、つまり、自分が教える生徒たちにとって一番適切な教科書を選ぶことは、教師の仕事です。そんなことは民主主義国家であるなら、常識ではないでしょうか。私は私の経歴に照らし、権力を濫用した都教委の強権教育行政には激しく心が傷つきます。「文科省検定済教科書さえ、教師に自由に選ばせないところまで来たのか」…と。

   
  12、さらに、このような教育への違法・不当な政策決定の過程については、都教委はその不当さを知られたくないせいか、定例会後、傍聴者を締め出した後の秘密の懇談会や「定例会はしません」と告示しておいて、こっそりと委員たちに高額ハイヤー代を支出してまで秘密会等を開くという、信じがたい事実隠ぺい主義をとっています。後者については、私が情報公開によって証拠の文書を得なければ永遠に闇に葬られていたことでしょう。
  
 
  13、都教委の通知後、「実教出版歴史教科書だけは選定するな」という、教師の教科書選びへの干渉は、私の住んでいる千葉県を含め、いろいろな府県教育委員会に及んでいます。そこで、私はじめ、全国の原告たちは日本国憲法第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という「自由及び権利」についての「国民の不断の努力」義務を果たすべく、都教委のこの実教出版教科書のみ選定禁止議決・通知の不当性・違法性について、裁判官に判断していただきたく、この訴訟に参加しました。
  
                       
  14、先行訴訟(平成26年(行ウ)第60号、第111号 損害賠償請求事件)は「本件都教委通知がされたことによって、原告らの具体的利益が侵害されたとはいえないから、これによって、原告らの期待ないし信頼が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできない」という最高裁判例をひきます。しかし、これでは「裁判官は日本国憲法に規定された義務・職責を果たしている」とは言えないのではないでしょうか。
 
  
  15、都教委は、自身についての真実を書かれた教科書に対し、これを削除させようとして、公開の定例会ではなく秘密の懇談会でことを決め、更にその会議についても、主権者に対しては「5月9日は定例会は行いません」と公報しつつ、こっそりと委員を招集して会議を行うという、狡猾極まりない嘘で固めた手法をとりました。
  この甚だしい主権者無視に対して、主権者はどのような批判・是正の手段が認められているでしょうか。教育委員がかつてのように公選制であれば、一定の批判は可能かもしれませんが、現在のような都知事による任命制であるなら、結局、主権者がこの「狡猾な嘘」に対して自らの意見を言い、批判をなす機会は、事実としては存在しえません。
  この裁判が唯一の機会・手段なのだという私の切実な気持を、ぜひ、理解し、酌み取っていただき、形式的に切り捨てるのではなく、内容に立ち入って検討していただけますよう、心から願っております。