■2 足立十六中平和教育介入事件=第一次攻撃
   (1997年7月〜2002年3月)


Q1 1997年3月に足立十二中であった、後の10・23通達につながる出来事とは何ですか?

A1  卒業式での話です。
 増田先生の教え子達が、君が代斉唱時に起立しませんでした。紙上討論授業を通してわが国の近現代史と平和主義の理念をしっかり学び身につけた生徒達の自発的な行動でした。まだ「国旗国歌法」(1999年)成立以前の話で、一部区議が足立区議会で問題にしましたが、今のように指導責任を問われて懲戒されることはありませんでした。でも、このことから影響力のある教師として一部右翼勢力からマークされることになるのです。
 また、「答辞」を読んだ生徒は、中学時代の思い出の一つに増田先生の紙上討論授業を取り上げました。卒業生へのアンケートに基づき素晴らしい授業として取り上げたものです。
 そして4月から、問題の足立十六中に転勤することになります。
 [参考]足立十二中での紙上討論授業が本になっています。
     増田都子著『中学生マジに近現代史』(ふきのとう書房)

Q2 1997年4月に転勤した「足立十六中」とはどんな中学だったの?

A2  区教委直結で、管理主義教育の学校と言われていました。管理職志向の教員が多く、当時から毎日屋上に日の丸を揚げており、教育目標は「社会に役立つ人間」。1学年5学級規模の大きな中学校ですが、生徒の4割は越境入学。一方で都の「人権尊重教育指定校」も受けていました。2005年3月、統廃合で廃校になりました。

Q3 「足立十六中平和教育介入事件」とは?

A3  増田先生は、1学期の終わり頃に、沖縄の米軍基地についてNHKのビデオを題材に紙上討論を行いました。このときの生徒たちの意見は、黒板「せんせいがんばって〜!」にある「●生徒との対話(1)」ですが、ある保護者がそれを「反米偏向教育」と決めつけ足立区教委に通報しました。区教委から連絡を受けた校長は、保護者が「反米偏向」というとんでもない誹謗中傷をしているのを知りながら正直に言わず、保護者は「米軍批判が多くて米国籍の子どもがかわいそうだ」と言っている、とすり替えて増田先生に伝えました。
 校長は本来、外部からの理不尽な教育内容への干渉・介入を阻止する責務を果たさなければなりません。それを、区教委と図って、この保護者に迎合しつつ彼女を利用し、足立十二中での「『君が代不起立』生徒を出した」増田先生を弾圧しようとしたのです。
 [詳しくは「子どもの人権を侵害したのはだれ?(2)」をご覧下さい。]

Q4 保護者は何が目的だったの?

A4  最初から「偏向教師を辞めさせたい」と言ってました。増田先生を攻撃する前は、新任の英語教師が攻撃され、校長に告げ口されて何度も泣いていました。お仲間と「教師は読売新聞や産経新聞を読まなければならない」と会話するような右寄りの思想の持ち主です。精神科医野田正彰教授の意見書には「母親の意志通りに子どもを動かす」との言葉があります。

Q5 どのよう授業に介入してきたの?

A5  授業で配ったプリントを、同傾向のお仲間から入手すると、反米偏向教育と決めつけて、先生の頭越しにいきなり足立区教委にクレームをつけていきました。苦情を受けた区教委の細谷指導主事は「クビにしたいがなかなかそういかなくて困っている」と保護者を煽るような対応を取ったそうです。
 校長も増田先生に秘密に、臨時PTA保護者会を開催することを許して、校長・教頭も出席しました。この保護者は、増田先生のいない臨時P『T』A会議で『反米偏向教育』と騒ぎ立て、その後は、自分が個人攻撃を受けたなどと騒ぎ立て、増田包囲網の形成を目論みます。しかし、保護者も生徒達も同調してこないと見るや、自分の子どもだけでも、増田先生の授業は受けさせないという突出した無茶な挙に出ます。
 その結果は子どもに深刻な影響をもたらしますが、並行して保護者は増田先生を「名誉毀損」で裁判に訴え、さらに翌年には『産経新聞』に自分の一方的な主張を流し、土屋都議に働きかけるなど、どんどん騒ぎを大きくしていきました。
[細かいいきさつは「子どもの人権を侵害したのはだれ?(2)」をご覧下さい]

Q6 増田先生は授業介入にどのように対抗したの?

A6  教育内容への介入には断固応じませんでした。
 プリントに「間違い」や「ウソ」があったのならともかく、「事実」しか載せていないものを、気に入らないから変えろというのは、イデオロギーの押しつけでしょう。これは教育の自由の根幹に関わる問題です。増田先生は、生徒への配慮は行いましたが「事実」をねじまげることや「平和主義」の思想を変えることは断固として拒みました。
 都教組足立支部にも訴えましたが、組合は組織防衛を優先したのか、増田先生のほうを攻撃してきたのです。
 裁判、マスコミによるバッシング、都議から圧力をかけられた都教委からの処分など、一人では支えきれない雪崩のような攻撃に、自分は「天に恥ずるところはない」との信念を心の支えに、単身素手で立ち向かってきました。
 次第に支援者も増えていきますが、このころのことを「四面楚歌」をもじって「八面楚歌」と称しています。
 [参考「本人に知らせず裏でこっそり処分決定」]

Q7 保護者は自らの非を認めたの?

A7  自分が行ったことの意味を未だに理解できていないでしょう。
 この保護者が行ったことは、真実を教える教育の自由に対する権力の威を借りた(権力に利用された面もあったかも知れない)攻撃でした。さらに自分の子どもを巻き込んで、彼女を意に反する葛藤に追い込んでいったのです。
 授業内容に疑問があるなら、密告まがいに区教委へ電話する前にやることはいくらでもあったはずです。話し合いにはいつでも応じると、増田先生は最初から言い続けていました。聞く耳を持たず、なりふり構わず一方的に攻撃をエスカレートしていった結果、多くの人が傷つくことになりました。
 目論見が外れて、保護者の取り込みに失敗し、生徒たちの支持も得られず、孤立していったのは母娘だったのです。後に右翼マスコミや都議を動かして、増田先生を処分させますが、それで満足したのでしょうか。本当の子どもの幸福とはそんなものだったのでしょうか。
 [参考「子どもの人権を侵害したのはだれ?(4)」]

Q8 授業で子どもが傷ついたのではありませんか?

A8  違います。
 保護者は子どもの頭越しに「反米偏向」と、区教委にクレームをつけました。
 国際結婚で子どもが「米国籍」であることを「反米」を批判する根拠としています。しかし、そのプリントで子どもの心が傷ついた、と言うのは全くデタラメの後付けの理屈です。
 増田先生は、その子どもから直接、意見・反論・注文あるいは素振りなどでも特別の反応を示されたことはありません。そのプリントを使った授業の時も全く普通でしたし、次にいわゆる「アサハカプリント」を使った紙上討論を行った時にも、在日米軍問題に関するすぐれた意見を冷静に書いていたのです。子どもは親と全く違った受け止め方をしていました。騒いでいたのは保護者一人だったのです。
 [参考「子どもの人権を侵害したのはだれ?(3)」]

Q9 では、介入した保護者の子どもが授業に出なくなったのはなぜ?

A9 親が独断で決めたことです。
 2学期当初9月から「子どもには教師を選ぶ権利があるから社会科の授業は受けさせません」と宣言して、出させなくなりました。これ以降顔を合わせることもなくなりました。
 では生徒本人の意志はどうだったのでしょう。部活の親友に問わず語りに「『お母さんが社会科の授業は出ないでいい』と言うから出ないんだ」と打ち明けたそうです(多くの生徒はボイコットに気付いていない)。
 子どもに突出した行動を取らせることで、増田先生を学校で孤立させようとしたのかも知れませんが、逆に孤立していったのは母娘の方だったのです。社会科授業のみボイコットは誰からも共感を得ることはできなかったのです。
 [参考「子どもの人権を侵害したのはだれ?(3)」]

Q10 子どもの不登校に、区教委・校長・担任はどう対応したの?

A10  教育を受ける権利を放棄するのは異常なことです。12月から不登校になります。
 ボイコットの申し出を保護者から受けた時、現場の責任者である校長はなぜ思いとどまらせることをしなかったのでしょうか。親の言いなりになって、子どもを不登校に追い込み、それでもなお手をこまねいていて遂に転校にまで至ることになった責任は、まず校長に問われなければなりません。
 教育的配慮に欠けた無能な校長を指導できず、事態を知りながら放置した区教委の責任も重大です。「『不登校の相談室』に通うよう指示」する以外にもっと大切なことがあったはずです。
 担任の対応は不明です。少なくとも、生徒と増田先生を引き合わせたり話し合わせるような努力は一切行っていません。校長からそう指示されたか、その顔色をうかがっていたのでしょう。
 [参考「子どもの人権を侵害したのはだれ?(3)」]

Q11 増田先生はどう対応したの?

A11  学ぶ権利=知る権利を自ら投げ捨てる間違ったボイコットを止めて勇気を持って授業に戻ってきて欲しいと、祈るような気持ちで見守るしかありませんでした。
 もし増田先生が、図書室かどこかに子どもを呼んで「授業に出ましょう」なんて言ったら、どうなったでしょうか。またまた、保護者が「娘を懐柔しようとした」とか「娘に圧力を掛けた」とか「娘は恐怖で震えた」とか大騒ぎしたのは必定でしょう。足立十六中は密告社会でした。どっかの全体主義国のように『密告』の目が、そこかしこに光っているとき、アクションを起こすことは自殺行為です。
 特定授業のボイコットという無茶を子どもに強いた母親と、それに無思慮に追随した校長が、教育の視点に立ち返り自らの誤りに気付かない限り、事態の打開はあり得なかったのです。
 責任の所在は明確です。増田先生は、「子どもにマイナス面が出たら、『社会科授業のみボイコット』を承認したあなたの責任ですからね。間違っても増田のせいにするんじゃありませんよ」と、生徒のこんな不毛の選択を、教科担任である増田先生に何の相談もなく是認した校長に対して一札を入れておくべきでした。
 [参考「子どもの人権を侵害したのはだれ?(5)」]

Q12 どうして子どもは転校したの?

A12  翌年4月に自分の本来の学区内の中学に転校していきました。
 生徒の中で孤立していったことが最大の理由ではないでしょうか。
 部活の部長選挙で、親友と争って敗れ、親友との人間関係も壊れたことが、不登校につながったという声もあります。この時期の中学生は同級生との関係を何より大事にするものです。進級すれば増田先生の授業ボイコットもやらなくてよくなるのに、その前に去ってしまいました。
 特異な行動は周りから理解されなかったのです。
 しかし、転校していった先でも、母親の方は、裁判だ!マスコミだ!都議会だ!と騒ぎ続けるのです。右翼雑誌『正論』に投稿したり、産経新聞に子どもの『手記』なるものを大きく載せさせたり、娘は周りから注目を集め続けます。ほとんどさらし者状態であることに母親気付かなかったのでしょうか。子どものために母親を説得する人は身近に誰かいなかったのでしょうか。
 子どもは、転校先の中学でも不登校になり、その後進学した埼玉県の私立高校も中途退学してしまいます。
 この高校中退についても母親は娘の同級生もたくさんいる繁華街の北千住駅頭での土屋たかゆき都議の街頭宣伝で「増田のせいだと言ってほしい」と頼みました。土屋都議はこの頼みをきいて宣伝したため、後述するように「増田に対する名誉毀損」と裁判所に認定されました。
 [参考「子どもの人権を侵害したのはだれ?(4)」]

Q13 「アサハカプリント」って何?

A13  保護者とそれを支持する右翼勢力が、プリントのなかの「アサハカな思い上がり」という言葉尻をとらえ、まるで鬼の首でも取ったように攻撃材料として使うので、こんな風に呼んでいます。増田先生は、生徒の「先生、あの電話連絡網は何?」という質問に答えるため1枚のプリントを配布しました。「教員はしっかり憲法や真実について教えるべき」であり、自分の考えに合わないことがあると教育委員会に抗議の電話を入れる保護者がいるのも「あなた達の生きている社会の現実である」ことを教える絶好のチャンスだとみたからです。「逃げない、隠さない、ごまかさない」をモットーとする増田先生らしい行動といえましょう。
 これをめぐっては、配った時期や意図も含めて様々な誤解が飛び交うことになります。
 保護者はプリントの内容を、自分に対する「個人攻撃」であり、文中の「アサハカ」「クラーイ情熱」「チクリ」「セコイ」などが「名誉毀損」に当たるとして、その年の9月半ば、足立十六中の校長室で、この保護者の弁護士と校長・教頭で密談し、校長は区教委の指示で『全面協力』を約束して保護者の提訴を後押しし、10月に提訴しました。
 もし保護者が常識的な方法で質問をしてきたのなら、また校長が教育者の自覚のかけらでも持っていたら、増田先生はこんなプリントを配らなくても済んだでしょう。一人の教師として、教育に一番大切な真実を教える自由を守るために、事実を隠蔽・歪曲しようとする攻撃には立ち向かわなければなりませんでした。言葉尻だけあげつらうのは、問題の本質から目をそらす主客転倒した議論です。
 [参考「せんせいがんばって〜!●生徒との対話(2)― 誹謗中傷への答え」]

Q14 保護者が「名誉毀損」で訴えた裁判の結果はどうなったの?

A14  第一審では、増田先生の訴えが受け入れられず、敗訴となりました。
 第二審では、保護者が訴えなければならなかったのは雇用主である東京都であり増田先生ではない、という第一審裁判官の信じがたい初歩的ミスが確認され、あっさり逆転勝訴となりました。(2000/9/28最高裁確定)

Q15 右翼都議の介入は、いつから始まったの?

A15  事件から約1年後の98年8月頃からです。
 保護者→産経新聞→土屋都議のルートで伝わったようです。
 産経新聞は、98/8/17の記事を皮切りに、社説も含む実名報道で、突然増田バッシングキャンペーンを始めました。これは今も執拗に続いています。デマとウソに固められた一連の記事は公正中立を標榜する報道機関にあるまじき行為であり、裁判に訴えています。
 東京の極右三都議、土屋敬之・古賀俊昭・田代博嗣の三人は、98年8月から、ことあるごとに都議会の場で「増田教諭を免職せよ」という露骨な攻撃を始めました。
 2000年7月には、わざわざ足立区の北千住まで出向いて、土屋・古賀らが駅頭街宣をやっています。この時の土屋の演説は増田先生の名誉を傷つけるものとして損害賠償金35万円が最高裁で確定しています。
 2000年11月には、俗悪暴露本『こんな偏向教師を許せるか』(展転社)を出版しました。内容はデマにつき物の、一部の事実を針小棒大に取り上げたり、彼らの妄想で勝手なストーリーを作り上げたものばかりで、その上都教委しか知らない増田先生の個人情報がなぜか堂々と掲載されているので、三悪都議と都教委をそれぞれ裁判に訴えています。
 これら一連のやり口こそ、権力を悪用した「個人攻撃」と言わなければなりません。

Q16 第一次処分って何?

A16  校長の「職務命令」に従わず、保護者を誹謗する教材プリントを配った、という理由で、減給1ヶ月の処分が発令されました。
 事件から1年以上たった98年11月28日、都議の圧力に屈した都教委が出した最初の処分です。

Q17 第二次処分って何?

A17  学校のPTA名簿に載っている保護者全員に、学校の紙と印刷機を使って文書を作成し郵送した、という理由で、減給1ヶ月の処分が発令されました。
 99年7月28日のことです。文書の内容は、進行中の保護者提訴の名誉毀損裁判で保護者自身の明らかな虚偽の証言があったので、学校に関わる重要情報として知ってもらおうとしたものでした。外形的微罪で引っ掛けた言い掛かり処分の典型です。

Q18 第一次〜第三次命令研修って何?

A18  第二次処分の後、1999年9月から翌年3月まで、東京都教育研究所での長期研修を強制されました。この7ヶ月間の研修が第一次研修です。
 研修はさらに、2000年4月から1年間強制されました。(第二次研修)
 さらに、2001年4月から1年間継続を強制されました。(第三次研修)
 これらの研修は、その目的が本人に示されないという異例のもので、教育現場から引き離されて、増田先生は一人不当な研修の名を借りたイジメ懲罰と闘い続けました。
 [この時の研修の様子は書籍『教育を破壊するのは誰だ』に詳しく紹介されています]

Q19 組合は何をしていたの

A19  平和教育つぶしを図る都教委に、増田先生を売り渡した、としかいえない行動をとりました。
 増田先生は、入都から都教組(東京都教職員組合=全教)の組合員で、問題が起きた最初から、都教組足立支部に事実関係を連絡し支援を要請していました。民主教育を守り、組合員の身分を守るのが、組合の何よりの使命と誰でも考えます。
 ところが、この期待は見事に裏切られてしまいます。足教組は校長・保護者と同調し、あろうことか、都教委が不当な第一処分を出した翌日それを歓迎して、増田先生を『偏った教育をした』と書いた増田批判ビラを街頭で配ることまでやったのです。背後から味方に銃を撃たれるとはこのことです。
 増田先生は、都教組を脱退し、小さいながら独立系組合「東京都学校ユニオン」を立ち上げます。
 [参考「本人に知らせず裏でこっそり処分決定」]

Q20 一連の事件は、どのように決着が付いたの?

A20  三次に及ぶ長期研修の終わった2002年3月、増田先生は翌月からの千代田区立九段中学への勤務を命じられます。長期研修中も理不尽な指導には一歩たりとも屈しない姿勢を貫いていたのですが、特段の理由も告げられないまま研修は完了しました。こうして増田先生は、2年7ヶ月ぶりに現場復帰を果たすことが出来たのです。
 一保護者の「反米教育」攻撃から始まった騒動は、多くの人の人生に激震の跡を残しながら収束を迎えました。

Q21 黙って引き下がったのですか?

A21  とんでもない。不義は放置できません。増田先生の逆襲が始まりました。
 増田先生は、不当・違法・理不尽な仕打ちの記録や証拠をしっかり集めており、それらを公正な裁きを求めて司法の場に持ち込みました。
 「対土屋都議名誉毀損裁判」(北千住駅頭誹謗中傷街宣、土屋の名誉毀損が裁判で確定し賠償金35万円を支払うも謝罪せず)「三悪都議共著俗悪本名誉毀損裁判」(デマ捏造満載の暴露本公刊)「対都教委増田個人情報漏洩弾劾裁判」(東京都個人情報保護条例違反)などです。
 これらは、都議の政治生命や都教委幹部の地位を危うくするもので、彼らは真っ青になって対応に追われることになります。